執筆:鶴飼哲也(2020年11月17日~)

2018年の11月に入った頃だった、、、大宇宙に大きく響くOMが常に聞こえる様になった。
それは、神なる愛の響きであり、うっとりする美しさだった。
現象音とは次元が異なるからだろう、日常の音と干渉することは無かった。

 

以来、ある姿勢でその甘美な響きに浸り切ることを奨励され、その幸せを満喫した。

 

2019年元日、メッセージにより主催した6時間瞑想会が始まってからも、私は、そのとろける幸せに浸り切った。

 

開始から70分が経った時、、、約2ヶ月間続いていた宇宙大のOMが、突然止まった。
それまで聞こえ続けていた響きが突然止んだ驚きは、、、聞こえ始めた時の驚きより遙かに大きく、思わず目を開けた。

 

氣が遠くなる様な無音の中、両目を見開いて、「これはメッセージだ!」と氣付いた瞬間、、、それまでのOMより更に大きな響きで、メッセージが与えられた。

 

「神として、神なる宇宙へ、神なるOMを放ちなさい。」

 

新しいステージの始まりである。
このメッセージを自覚してからは、再びOMの響きが聞こえたが、その音は遙かに小さく、、、新しいテーマに相応しいボリュームとなった。

 

当初、この「神として」の感覚がなかなか捉えられず、体感レベルで最初の糸口を何とか見出すのに、ほぼ2ヶ月を要した。
それまで、師や神からの無限の愛や恩恵に感激し、痺れることはあっても、「合一」への集中が希薄であったことを思い知る2ヶ月だった。
神なる愛を感受しつつ、深く感謝していたものの、、、「神なる自己の自覚」に対峙せず、どこか深いところで、自分を対象外としていたのだ。

 

以降、段階的に感覚が深まり、その度に新たなステージを体験したが、、、しかし、一貫して集中を促されたのは、全く同じメッセージ「神として、神なる宇宙へ、神なるOMを放て」であり続けた。

 

何故、こんな文章を打っているのだろう。。。
いや、そんなことは、私の範疇では無い。シンプルに全託し、導きのまま進もう。

 

この文章は、、、どうやら、降り注ぐ『神実現の言霊』と呼応して、歩調を合わせるように進行するようだ。これから、人類は怒涛の如く神実現して行くことになる。神としか呼びようのない、この唯一なる完全な意識の実現である。その時、何かのご縁でこの文章を読むことになった人が、私の体験した神との交流を一つの鏡とし、、、自身の神との交流が、自ずと浮き彫りになるのだろう。ただの一つも同じものが存在しない、一人ひとりの「神実現の道」は、そのひとつひとつが限りなく美しく、尊く、愛おしい。その一つひとつを、神なる宇宙は、心から愛し、楽しんでいるだろう。。。2020年9月17日、パートナーの馬渕貴子が行う毎日のプージャ(インド伝統の礼拝)に参列した際に伝えられた「すべてをオープンに扱う段階に入った。」とのメッセージは、その直後に行った収録だけでなく、この文章とも繋がっていたことを、今改めて認識した。

 

私は、本当に有難いことに、今生、二人の師に出遭うことを許された。その恩恵は、言葉で表現できるものではない。

 

今生最初の師には、22から30まで、まだ何もわかっていない私にも師弟の関係を許していただき、師として導いていただいた。宇宙の真理、魂の成長、カルマの法則、師弟愛、帰依、天命(ヴィジョン)の本質、無条件の愛、、、そのすべてを、いろはの「い」から、全存在を通して伝えていただいた。この宇宙大生命の完全な化身と、魂レベルで完全に繋いでくださったのも、彼である。その様な究極の聖者は、少ないけれど、複数いらっしゃる。彼の永遠の師、サティア・サイババもそのお一人だ。彼には、サイババへの帰依、その覚悟、緻密さ、美しさを、日々見せつけていただいた。最高の宝である。

 

高校3年の時、家族の縁で、あるセミナー会社が主催する、社会人を対象にした瞑想コースを受講した。週1回、19時からの2時間、一ヶ月のコースだった。その3週目に衝撃的な魂の再会をしたのが、その人である。見た瞬間、「居た!」と魂が叫んだ衝撃は、今もありありと全身に残っている。その日の講座が終わった後、会場の一角に座る彼に、勇氣を振り絞ってご挨拶に行った。当時、自己否定の権化だった私は、「こんな立派な方は、私など相手にしてくれる筈がない。」と信じて疑わなかったが、その時は、何かに突き動かされ、行動できた。その時の、まるで神仏を拝むかの様に注いでくださる愛敬の眼差しは、今なお、今生最大の衝撃と言える。。。

 

 

25の時、当時最大のセッションを迎えた。魂としてのこれまでとこれからを見通す、とても大きな機会だった。自ら意志してもなお超えられない致命的なカルマ(自己真実)を終える道筋を開いていただき、その先、自己の真の姿と天命に対峙する上で、核となる重大なメッセージを受け取る機会だった。その時に伝えられた「あなたの帰依の対象は、私ではない。それを完全に受け入れられないのであれば、ここにいてもらうことはできない。あなたが、自分自身と自分のヴィジョン(天命)を見失うからだ。」とのメッセージは、受け入れるのが非常に難しいものだった。

 

その時伝えられたすべてをすっかり理解できたのは、30の時だった。パートナーの馬渕と出会い、『神との対話』の5回目を読み終える直前に、宇宙の真理が内側から目覚める体験をし、「宇宙のすべてにとっての最善」という視点を、二人が常に選ぶ「唯一の視点」と定め、導き通りに生きる人生が始まった時、、、25の時に全てを伝えられていたことを深く実感した。愛とは、、、限りなく、どこまでも愛である。。。

 

この師については、まだまだ言葉にすべきことが残っているが、一旦ここまでで良さそうだ。

 

「宇宙のすべてにとっての最善」という視点は、本当に偉大だ。この広大無辺な宇宙において、マインドを除く全てが、この唯一の視点で共鳴している。それが故に、この宇宙は、常にあまりにも美しい。。。

 

我々がこの視点を選択した途端、素晴らしいことを体験した。縁深き様々な霊的存在、導き手たちが、たった一つの唯一なる完全な意識、ただお一人として統合されたのだ。以降、あらゆるメッセージに対して、私たちは仕分け、選別、審神者をしなかった。ただ一点、自分たちが完全な純粋性、完全な帰依、感謝、愛、覚悟、静寂、至福と共にあるかだけ、その一点だけを確認していた。それさえあれば、危険な誘導に嵌ることもなく、完全な導きから外れることもないと分かっていたからだ。

 

そんな流れの中、2018年3月11日、私は、永遠の師、マハヴァター・ババジに導かれた。たったひとつのすべてのすべて、ナラヤナ、大日如来、天之御中主神、、、は、私にはババジとして映り、語り、顕れる。。。私の旅は、遂に終わった。『神実現の言霊』は、彼の発する宇宙大の言霊である。

2020年10月31日、NOW HOUSE で行われた満月のオーム・チャンティングで、とても大切な体験を授かった。私にとって、宇宙根源の聖音OMとナラヤナとババジは、完全に同じ「ひとつ」なのだが、、、その日のオーム・チャンティングにおいて、最初から最後まで、完全なOMを体験させていただいた。

 

OMを唱えることは、ババジを呼ぶことであり、ババジに重なっていただくことであり、ババジにOMを唱えていただくことだった。その日のオーム・チャンティングでは、終始その完全なOMを体験させていただく、限りなく尊いものだった。一切のマインドが入り込む余地の無い、完全な集中の中に引き入れていただき、そこに留めていただいたのだ。

 

以降、それに勝る貢献も喜びも存在しないことを識り、それ以外に興味がなくなった。常に、そのOM、そのババジ、そのナラヤナを呼び、重ならんと集中した。それは、とてもスムーズであったが、、、不要な「私」がその集中に混ざり混んでいたことを識ったのは、11月17日のプージャの時だ。

 

 

令和二年 十一月 十七日
奈良県室生 NOW HOUSE(プージャ)にて

お前が私に重なって、NARAYANA(宇宙大生命)に重ならんと、渾身のOMを唱えるのと、
私がお前に重なって、NARAYANAとしてOMを唱えるのと、どちらが良いか選びなさい。

 

神なる普遍意識は、もちろん無限の愛そのものであるから、私がただ選べば、私の位置で完全な愛として、無限の霊光OMを放ってくれる。

 

この広大無辺な意識フィールドにおいて、「私」の位置は私の責任である。その、私の責任において、完全なる神意識に全権を振るっていただくことを、ただシンプルに選び切り、その純粋な意志に完全な集中を捧げるだけで良かったのだが、、、無意識に、「力いっぱい、呼び、迎え入れ、重なり、唱えよう」とする「私」が居たことを、深く、氣持ち良く氣付かせていただいた。有難い限りだ。

 

そして、、、「神として、神なる宇宙へ、神なるOMを放て」と約二年間徹底的に自覚を促されたステージが、無事卒業を迎えたことを識り、深く合掌し、頭を垂れた。。。

 

愛は、どこまでも、限りなく愛である。。。

 

 

2020年11月18日、この日与えられた言霊は、あまりに美しく、添えるべき言葉も何もない。何度も深く味わうことができる。

 

 

令和二年 十一月 十八日
愛知県車道 太道治療院(Awesome 7)にて

「祈り」の最高の顕われは、「愛の響き」である
その「愛」の最高の顕われは、「静寂」である
一切の波立ちの無い、完全に満ち足りた静寂こそが、愛の究極の姿だ
あなたの内に、その愛が溢れているなら、それは私だ

 

この日与えられた言霊は、あまりに美しく、添えるべき言葉も何もない。何度も深く味わうことができる。
ただ、「Awesome 7」なるものには言及しないと、何の話か全く分からないだろう。神縁によって結ばれた、限りなく素晴らしいご縁、7名の集まりである。

 

皆、この現象世界に、一切の執着がない。虚栄心もまるで見当たらない。朗らかで、謙虚で、実に清々しい。現象世界においても、既に特別なお働き、天命を天命として捧げている。。。

 

「よくぞこんな人が実際に存在していてくださったものだ!」「よくぞこの人との出遭いを与えてくださったものだ!」と、全員が全員に対して思っている。。。恩恵しか感じない。。。

 

2020年11月1日に、初めて参集し、すべての人と既にご縁を授かっていた私が、それぞれの方を皆さんにご紹介した。神なる普遍意識によって、これからの、人類の怒涛のような神実現の潮流に向けて、今、故あって出会わせていただいているのは、あまりにも明らかだ。感謝しかない。

 

18日、その二度目の集いが始まる直前、ただ静寂の内にババジのOMと在る時、この言霊が静かに響いた。。。

 

「祈り」の最高の顕われは、「愛の響き」である
その「愛」の最高の顕われは、「静寂」である
一切の波立ちの無い、完全に満ち足りた静寂こそが、愛の究極の姿だ
あなたの内に、その愛が溢れているなら、それは私だ

 

あまりに美しい。。。あまりに美しい。。。

 

 

2020年11月24日、日常のある瞬間に、思いがけず、ある体験を与えられた。
私にとって重要で重大なメッセージが与えられたのだが、、、それと共に、、、「一瞬の中に無限が折り畳まれている」ことをありありと見せていただいた。

朝の柔らかい光の中、薪を運び終え、洗濯物を干している日常の一瞬に、それは与えられた。。。

 

 

令和二年 十一月 二十四日
奈良県室生 NOW敷地内(作務)にて

自身のダルマよりも、常に「合一」にこそ集中していなさい。
そうすれば、あなたのダルマは、神によって成されるだろう。

人のダルマの支援はせず、神実現の支援をこそしなさい。
誰しも、それが成されなければ、本当のダルマは成就しないのだから。

世界平和を見詰めることなく、人類の神実現を見詰めなさい。
さもなくば、実現不能な平和の幻影に没することになる。

神との合一だけが、唯一の答えであることを、いつも覚えていなさい。

 

このメッセージが、このタイミングで何故自分に与えられたかは、本当に良く分かる。

 

愛深き人たちが没しやすい、聖なる魔界とでもいうべき善なる世界の入り口は、、、日常のあらゆる瞬間に存在している。しかし人類は、その様な、一見心地良く素晴らしい、、しかしその実、決して長続きしない(永遠の真実ではない)美しき迷妄に遊戯する時代を、とうの昔に終えている。そのことは、あらゆる分野、あらゆる視点で、この星の実状に対峙すれば、あからさまに見て取れる。

 

この日与えられたこのメッセージを、今人類が生き切ることの重大さは、、、見通せないほどに大きい。。。

 

この一連の御言葉の中で、「人の神実現の支援をしなさい」と言われた。これには少し不思議な感覚を覚え、瞬間的に「問い」が生まれた。そして、そこから短い「問答」が続いた。

「人の神実現の支援をしなさい」のメッセージに、「ということは、私は神実現しているということですか?」と問うと、「していないのか?」と。。。

「では逆に、『(お前は)神実現しているのか?』と問われたら、どう答える?」と。。。

「『神実現は、神の世界ですから、人が問う必要はありません。ただ、この大宇宙より遙かに大きな愛と静寂、その神たる完全な意識との合一は、常に実感しています。』と答えるでしょう。」

「その状態に導けば良い。」と。。。

アートマ・クリヤ・ヨーガありきなのは、言うまでもない。

 

より正確に言語化するなら、誰しも、「安全で確実な神実現の道」が既に与えられているなら、その無限の恩恵にすべてを捧げることが、常に答えである。この「すべてを捧げる」という愛の爆発が、内的にどこまで生じているか、、、これが鍵であり、これが全てと言っても良い。本人のインテンション、「意志表明」と、その表われである日常の選択が何より大切なのは、いつの時代も同じである。問われているのは、大いなる実在への愛。。。それは、真の自己への愛と同義である。

 

マインドは常に彷徨い、大切なものを忘れさせる。だから、義務や決意では、戦いが生まれやすい。もしくは、惰性に流されやすい。そんな時、常に立ち返るべきは「愛」である。氣付く度に、すっと「愛」に戻れることは、人類への最大の贈り物と言える。

 

愛は、、、愛だけは、他では補えず、愛することでしか深まらない。。。しかし、大変有り難いことに、愛は誰の内にも在り、、、その愛を発動させればさせるほど、どこまでも深まり、際限なく強く大きくなる。。。

 

この「安全で確実な神実現の道」、アートマ・クリヤ・ヨーガの存在を伝えることが出来ることは、私にとって限りなく偉大な恩恵だ。感謝しかない。

 

一連の御言葉と、この一連のやり取りとが、同時並行で、、、ほんの一秒程度の中に折り畳まれていた。意識の無限性を実感した一瞬だった。。。

 

ただただ深く合掌し、禮拝する。。。

 

 

11月25日、、、馬渕のプージャに参列すべく着席した瞬間、いつもに増して、爆発的な氣と光を放つマハヴァター・ババジの神像が、目に、、、否、意識領域の奥まで飛び込んできた。その衝撃に魂が震え、訳も分からず泣きそうになった。声も涙も飛び出しそうになったが、、、何とか内側に納めることが出来た。そして、何か特別なことが始まることを識った。

 

直後から、意識の焦点が当たるすべてに、そのど真ん中に、常にババジが結跏趺坐していた。それは、この現象眼で観たものの中心にも、意識の内側で焦点を当てたあらゆる次元のすべての対象にも、体内と体外、ミクロとマクロ、物体と意識領域の別を問わず、、、常に、すべてのど真ん中に、ババジが、その対象に呼応したサイズで座っていた。

 

その特別な体験を確認した直後、メッセージは始まった。

 

 

令和二年 十一月 二十五日
奈良県室生 NOW HOUSE(プージャ)にて

私は愛であり、光である。故に遍在である。
私が不在の「時間」も「空間」も、、、「存在」も、存在しない。

 

唯一の完全なる神意識が「遍在」であり、「すべて」であることを、改めて深く受け取った直後、、、この大宇宙、無限なる意識フィールドに遍満するすべての「中心」が、金色に光るババジ、太陽より眩しい無限の光として、ひとつに消えた。それは、「たった一つの無限なる光」ではなく、、、無限の次元の無限の中心が放つ無限の光が、渾然一体となった無限の光の稠密な束、固まり、、、としての「ひとつ」だった。。。そして、メッセージは、こう続いた。

 

これが、真なる世界の唯一の真実であり、、、
「神として、神なる宇宙へ、神なるOMを放つ」というお題の「真の姿」である。

 

これが究極の実相であり、神なる普遍意識であり、、、自己の本体と悟った。「その真実とひとつになった」と言った方が、体感を共有できるかもしれない。「神として、神なる宇宙へ、神なるOMを放て」、、、約二年間、常に常に自覚を促されたメッセージの、真実の姿を体験させていただいた。

完全なゴールを体験させてもらったのだから、他に何も要らない。ただただ、「それ」に、常に常に、新たなる集中を捧げるのみである。

 

 

2020年12月3日、早朝の祈りの中で、二日前の朝から続く一連のメッセージが、一つに統合された。。。

 

人類は、確かに岐路に在る。
そして、何を選択するか、、、何に意識の焦点を当てるか、、、どの意識状態を選択するか、、、それが、瞬瞬と問われている。

 

その流れの中で、「人類の神実現」とその具体的な道筋を示され、この二日、外に向く意識の比率がやや高まった。

 

しかし、やはりそこではない。
常に満ち溢れている、この完全性に打ち震えていなければ、、、どんな情報も、どんな導きも、真に価値あるものとして受け尽くすことはできない。

 

今朝の祈りの中、そのことを改めて深く受け直した。

 

 

令和二年 十二月 三日
奈良県室生 朝の祈りにて

人類の神実現は、約束されている。
そのことをいつも識っていなさい。

常に最奥から感得される唯一なる完全な意識に重なり、その無限の愛に震えていなさい。
そして、それを分かち合うのです。

人(あなた)にその「意志」があるなら、、、
人類の神実現は、約束しよう。。。

 

何と美しいのだろう。。。

その無限の愛に、、、ただただ合掌し、、、しばし、ハートの内に光の涙が溢れるのを感(観)じていた。

 

 

同じ日の午後、自分の連絡不足が一因となり、少し困ったことが起きた。出来事自体はとても小さく、発生した不調和も、ほぼ無いに等しかったが、事が事なら、些細なことから大ごとが生じる可能性は、常に存在する。

しかし、「そんな相対事象に真実など存在しない」と、真なる声は強く言い放つ。

ほんの一瞬の中に、無数の不調和な体験を示され、、、そのすべてにおいて、たった一つの、最も相応しい意識の姿勢を、強く示された。

 

 

令和二年 十二月 三日
奈良県室生 作務にて

どんな時も、常に在る絶対的完全性に集中していなさい。
不足を内包する如何なる言葉にも、耳を傾けてはいけない。
そんなことをすれば、その言葉の源に、正当性を与えることになる。

あらゆる存在に対して、あらゆる瞬間、絶対的完全性が、常に平等に降り注いでいる。
その真実を見失っているすべての言葉に、意識を向けてはいけない。
この絶対的完全性に常に集中し切ることで、それ以外のすべては自然に崩壊する。

これを受容と呼ばずして、何と呼ぶか。
これを献身と呼ばずして、何と呼ぶか。
それを愛と呼ばずして、何と呼ぶか。

 

この姿勢を貫くなら、、、本格的覚悟が必要だと、すぐに分かる。中途半端であれば、火に油を注ぐ様なものだ。

真実の愛を体現するのなら、、、「この宇宙には、神なる愛、その完全性しか存在しない」という絶対的真実から、ピクリとも動かない突き抜けた強さこそが求められている。。。そのことを、「今ここで知り抜いてしまえ」と、シャクティの閃光を浴びせていただいた。

 

 

夕刻、暗くなる頃、重いものを持って車まで往復していると、目にするすべてに大いなる必然を感じ、感謝が溢れ、すべてが一層輝きだした。深い幸せを強く実感した時、地面の窪みに足を取られ、足首を強く捻った。何年振りか思い出せないほど、久しぶりに強く捻った。すぐに、細胞に残る緊張をすべて解いたので、症状は全く出なかったが、、、そのプロセスの最中、メッセージが響いた。

 

 

令和二年 十二月 三日
奈良県室生 作務にて

本当の幸せを体験するには、並外れたパワーと覚悟と胆力が必要だ。

 

「だから、あの時、そう伝えただろう。」と。

その言葉を、その様に伝えてくれたのは、、、最初の師であり、私が25の時、新幹線の中だった。。。

しかし、「あの時、そう伝えただろう。」と言ったのは、今の師であり、、、やはり、普遍意識は、たった一つの大いなる意識なのだと、、、改めて深く実感し、身震いした。

 

 

12月5日、朝のふとした瞬間に、「このメッセージを、伝えられる限りの人と分かち合いなさい。」と、美しい響きが届いた。

 

令和二年 十二月 五日
奈良県室生 朝のふとした瞬間にて

このメッセージを、伝えられる限りの人と分かち合いなさい。

あなたが愛の時、、、あなたは愛です。
あなたが愛の時、、、あなたは、、、あなたです。。。

このことを真に受け入れたら、、、それ以外の時、直ぐに氣付くことができます。

「氣付く」とは、「氣のレベルに至る、触れる」という意味で、神との接点のことです。

真の「氣付き」は、愛であり、、、そこにジャッジメントはありません。

ただ、意識の眼差しを注いだ時、、、愛以外のすべては、自然と消えて行きます。

OM namo NARAYANAYA(オームナモ ナラヤナヤ)
おお、この宇宙大生命よ。私は、このすべてなる大愛に完全に溶け入り、もはや、その大愛が響き亘るのみ。。。

OM namo NARAYANAYA(オームナモ ナラヤナヤ)
おお、この宇宙大生命よ。私は、このすべてなる大愛に完全に溶け入り、もはや、その大愛が響き亘るのみ。。。

 

「ただ、意識の眼差しを注げば、、、愛以外のすべては自然に消える。。。」

 

たったこれだけの、限りなくシンプルな真実が、、、どこまでも無限に広がります様に。。。

 

合掌 九拝

 

 

この日、NOW HOUSEでは、アートマ・クリヤ・ヨーガの1DAYコースが行なわれており、私は、午後のオーム・チャンティングのみ参加した。(オーム・チャンティングとは、太古の昔、ヒマラヤの聖賢たちが地上のあらゆる不調和を癒し整えるために行っていた、非常にパワフルなグループヒーリングである。)

 

着席し、祭壇のババジの神像と目が合った瞬間、「これから、幾つか、特別なトレーニングをするぞ!」と一際強い波動が、閃光の如く届き、心の準備を促された。

 

導入は、「印と意識」についてだった。オーム・チャンティングでは、奨励される手のムードラ(印)があり、やり慣れたシンプルな印なのだが、、、その印を、形状はもとより、その意識のありようも含め、完璧で完全なものとして結ぶことを促された。自然界にある花の花弁は、、、とてもしなやかでありながら、張りがあり、氣エネルギーに満ち満ちている。完全に「咲いている」のだ。印も全く同様である。そこに「曖昧さ」は無く、一分の隙も無く、完璧に極まった形状とエネルギーの流れを保ちながら、完全に咲いているのだ。。。そして、、、99%と100%が、全く別次元の完全に異なる世界であることを深く体験する、極めて貴重な学びだった。

 

その深い学びに引き続き、、、真なる世界を進む、世界中の同志同朋へのメッセージが、力強く響いた。

 

 

令和二年 十二月 五日
奈良県室生 NOW HOUSE(オーム・チャンティング)にて

このメッセージを、この道に既にある同志に、しっかりと伝えなさい。
今こそ、その「時」なのです。

あなたが、既に「真なるもの」に出遭っているなら、「それ」に全存在を捧げなさい。

そうしない限り、ハートに愛の火が灯らず、、、その火がなければ、あなたが真に満たされることはありません。

あなたが出遭っている「それ」が、どれほど素晴らしいものであれ、、、「それ」に眠る無限力を発動させるのは、あなたが注ぐ無限の愛です。。。

99%では駄目です。

目の前のただひとつ、たった一度の「それ」に、500%捧げなさい。今生のすべてを懸けなさい。。。

ハートの火を、、、永遠に消えない無限の炎にするのです。

最奥から溢れ出る、その無限の愛が、「あなた」なのです。

 

人類は、いよいよ目覚めの時を迎えるのだと、強く実感した。

 

同志同朋へのメッセージを、しっかりと肚に納めると、次のステージが始まった。

 

その体験は、とても言葉では表現できないが、、、「漆黒の虚空」とでも呼ぶほかない、、、「時間も空間も存在も、一切が皆無の、完全に充実した意識」を体験させていただいた。「一切が無い」ながら、「完全に満ちている」『それ』は、、、遥か内側に「すべてのすべて」を内包していた。そして、それこそが、、、音無き響きOM、光無き霊光OMであり、、、完全な意識そのものだった。

 

「永遠」すら易々と内包する時間無き時間に、そのことを深く体験させていただくと、、、、、ふと、芥子粒よりも遥かに小さな「点」に氣付いた。柔らかな青白い光を持つ、極々小さな点が、その「完全な漆黒」の中にポツンと存在していたのだ。

 

「何かな?」と思うともなく意識が向くと、、、その一点は、あっという間に爆発的な風圧?と共に近づき、一帯に広がった。。。何と、それは、この広大無辺な宇宙それ自体だった。あの世もこの世も内包する「無限の体験事象」としての大宇宙そのものだったのだ。。。「あの芥子粒が、、、」と驚くこともなく、、、ただ静かに、ただただ深く、その真実を拝受した。。。

 

「不可思議」とすら感じない、その余りにも「当たり前」に満ちた実感が、、、何とも新鮮だった。。。

 

その余韻は、、、極々自然に、次のステージへと連なった。。。

 

「不調和の真実」とでも言えば良いのだろうか。。。一見、不調和かの様な響きでも、抵抗もせず、埋没もせず、ただそのまま受け入れ、そのまま開放していると、、、そこに満ち亘る、より立体的で深遠な調和が感じられ、、、更に進むと、その響きは、すべてを統合する妙なる響きに収束し、どこまでも深い静寂に至った。。。

 

時代に見えるそれと重なる。。。

 

祈りの本質が、どこまでも深まって行くのを感じられる体験だった。。。

 

恩恵に満ちた一連の導きに、、、ただただ深く合掌する。。。

 

 

2020年12月7日の夕刻、私は、あるニュースレターを書いた。翌日に控える、とても大切な、ある世界規模の機会をご案内する記事だ。人類が、自らの最奥に輝く愛を、ありありと実感する起点となり得る、とても尊い機会だ。

 

私は、ご縁を授かったすべての人にその機会の存在を知らせる必然を実感しつつ、「全てにとっての最善」という視点と共に、チューニングしながら、その記事を書き上げた。

 

確かにチューニングの良く効いた、真実の響きのある良い記事だったが、、、神なる無限力に溢れていなかった。そして、「こんなことをしている場合ではない。大いなる意識、神そのものに、直々の御働きを顕わしていただかなくては、全く『働き』になっていない!!!」と強く思い、書き上げた記事を消去し、、、まっさらなところから、ただ真実の祈りに潜航した。

 

そして、今まさに確かに岐路に在る人類を深く瞑想しつつ、「今日というこの時に、私たち人類が受け取るべきメッセージを、私たちに直接お与えください。」と、大いなる存在に祈りを捧げ、、、御言葉を授かった。。。

 

 

令和二年十二月七日
奈良県室生 夕刻の祈りにて

万人に伝え、百人が糸口を掴む時代は終わった。
既にこの道に在り、今日、今から、無限の愛を捧げ切れる者に届けなさい。
そこにこそ、人類の活路が残されている。

 

既に二日前に答えを受け取っていた。この二日間、、、充分に準備をした自分を深く認識し、満を持して、12月5日に授かった同志同胞へのメッセージを、ニュースレターとして発振した。

 

「百万人の善なる人が誕生するより、、、たった一人でも、真の体現者が生まれる方が、遙かに力強く「人類の可能性」を拓く。人類一人ひとりが、内なる愛に氣づき、真の一体性を感じる「可能性」が、たった一人の「体現者」によって、圧倒的に高まるのだ。」

 

常々伝えられているこのメッセージを、改めて深く受け直す貴重な機会だった。

 

そこに捧げ得る「余地」は、まだまだ存在する。

 

 

令和二年 十二月 五日
奈良県室生 NOW HOUSE(オーム・チャンティング)にて

このメッセージを、この道に既にある同志に、しっかりと伝えなさい。
今こそ、その「時」なのです。

あなたが、既に「真なるもの」に出遭っているなら、「それ」に全存在を捧げなさい。

そうしない限り、ハートに愛の火が灯らず、、、その火がなければ、あなたが真に満たされることはありません。

あなたが出遭っている「それ」が、どれほど素晴らしいものであれ、、、「それ」に眠る無限力を発動させるのは、あなたが注ぐ無限の愛です。。。

99%では駄目です。

目の前のただひとつ、たった一度の「それ」に、500%捧げなさい。今生のすべてを懸けなさい。。。

ハートの火を、、、永遠に消えない無限の炎にするのです。

最奥から溢れ出る、その無限の愛が、「あなた」なのです。

 

まずは、自分から。まずは、今ここ、この瞬間にこそ。。。

OM namo NARAYANAYA
OM namo NARAYANAYA

 

 

11月の下旬あたりから、自分の内側に常に響く祈りがある。

 

「どの人の内側にも燦然と輝く、この完全な愛、無限の愛を、、、誰もが、最奥から溢れる実感として、ありありと体験できますように」

 

やはり、体験こそがすべてだ。実感こそがすべてだ。そして、神も、愛も、正に、「体験そのもの」であり、「実感そのもの」だ。だからこそ、必然的に、この祈りに帰着する。

 

「どの人の内側にも燦然と輝く、この完全な愛、無限の愛を、、、誰もが、最奥から溢れる実感として、ありありと体験できますように」

 

 

2020年12月17日未明、いつもの様に聖音OMと重なる中、ナラヤナとしてのババジに、ある言葉が湧き上がった。

 

「もし人類一人ひとりに、あなたの言葉を受け取れる準備ができていたとしたら、、、あなたは、私たち一人ひとりに、どの様にメッセージを届けてくださいますか。」

 

深く合掌し、ハートの最奥でこう問いかけると、、、存在するすべてが金色に光り出し、、、空間全てが黄金の光で埋め尽くされた。そして、その光の中、言霊が響いた。

 

 

令和二年 十二月 十七日
奈良県室生 未明の祈りにて

私を受け入れなさい。
アートマ・クリヤ・ヨーガのシャクティパートを通して、あなたの内に私を受け入れるのです。
そうすれば、あなたがベストを尽くす度に、私があなたに全てを捧げる(与える)ことができるのです。

 

この圧倒的体験が、突然我が身に生じてしまったら、、、どんな現在地の誰であれ、その実感を振り払うことはできないだろう。

 

人類の神実現は、実は秒読み段階に入っているのかもしれない。

 

そう実感できる程に鮮烈なメッセージだ。

 

改めて、ただただ深く合掌する。。。

 

 

2020年12月20日、この日もNOW HOUSEで、アートマ・クリヤ・ヨーガの1DAYコースが開催されている。この秋から、明らかに流れが変わった。

 

神なる自己の実現、その完全な愛の体現者とならんと、明確な意志と情熱と共に、、、同志たちと日程調整し、その候補日と共に開催を打診される。。。本当に素晴らしいことだ。時代は、明らかに前進している。

 

この日も、私は、午後一番のオーム・チャンティングのみ参加した。そして、ここでも特別な体験を与えられた。その詳細を言葉にする感覚は生じない。言語化すると却って陳腐になる。。。

 

ここでは、エッセンスのみ言葉にするのが良さそうだ。

 

全ては、神なる愛によって結晶した愛の顕れであり、、、それらは、究極的には、たった一つの大いなる意識である。。。それは、あたかも無限の面を持つ多面体の様に、、、どの面から『それ』を観ずるかによって、その感応の仕方が変わってくる。

 

『それ』は、、、完全な漆黒であり、、、宇宙大の響きであり、、、完全に満ち足りた意識であり、、、無限の光であり、、、限りない静寂であり、、、無数のイノチの煌めきであり、、、たったひとつのすべてのすべてだった。。。

 

兼ねてより深く識らされている様々な側面を、、、体感を伴ってありありと体験させていただいた。

 

やはり、実感を伴った体験こそがすべてである。

 

神とは、、、愛とは、、、やはり、圧倒的な体験そのものだ。

 

深く深く合掌する他ない。。。

 

2021年1月1日、いよいよ、今年は、真なる領域が花開く、「幕開け」の年となる。必然として、最奥の光を遮る全てが露わになり、弾けて消えて行く。強い光の、強い愛であり、、、受け尽くす肚が要るのだ。

 

昨年12月から、予告通りに始まった怒濤のメッセージも、中々の圧がある。ある日、与えられる言葉をそのままタイピングしつつ、「これは、さすがに『圧』を感じる人も居そうだな。」と過(よ)ぎった。その一瞬に、間髪を入れず、メッセージが響いた。「その圧こそ必要だ。これから始まる大変革、本質への回帰と、、、それに伴う、問答無用の大規模な破壊を、真っ直ぐに受け止め、静かに、力強く通り抜ける上で、、、誰しも、本当の強さが開いている必要がある。。。これらのメッセージに圧を感じる人にこそ、この圧は愛である。本格的に事が起き始める前に、充分備えることができるのだ。」

 

確かにその通りと、深く拝受した。

 

この世界には、深い慈悲を湛えた愛の存在が沢山いらっしゃる。その存在が在ればこそ、、、強く激しいメッセージも、愛として、人々の「真なる領域」を開(拓)く。

 

やはり、捧げるべきは、ダルマだ。
全存在を捧げれば、、、人生を複雑にする全てのエゴは消え、清々しい覚悟が日常になる。その時にこそ、瞬瞬と降り注ぐイノチのメッセージ、即ち、自分自身のダルマを、ありありと認識できるようになる。そして、すべての恐怖は消え、真の自然体が目を覚ます。

 

その本来の自然体が、最奥から目を覚ます、、、そんな人が次々に出て来る。。。
今年令和三年は、必ず、、ある意味不可抗力的に、、、しかし、その実、無限の恩恵により、、、覚醒の年となる。
それを共に体験できるこの恩恵に、無限の感謝を捧げん。
合掌 禮拝

 

実は、12月5日以降、与えられる様々な体験を、敢えて言語化はせぬまま、内側で発酵するよう意識を注ぐのみにしていた。明らかに、「自分のためだけではない」大いなる響き、偉大な言霊によって、この文章は始まったのだが、、、この頃から「立体的体験」が優位になり、、、『神実現の言霊』という初発に授かったタイトルとは馴染まなかったからだ。

 

私に与えられるこれらの体験は、この先、どの様に進んで行くのだろう。。。ある日突然に始まったこの文章は、何を目的に生まれ出ているのだろう。。。そして、どこに向かっているのだろう。。。

 

問い詰めるでもなく、、、放置するでもなく、、、ただ、まっすぐな意識の眼差しを注ぎながら、もう少し明らかになるまで、敢えてそのままにしてあった。

 

その道筋が新たに示されたのは、2021年1月15日の未明だ。このままこの文章は自然に収束(終息)するのかもしれない、とも思っていたが、そうではなかった。

・当初、言霊の響きのみを綴った詩と、その背景のみを綴った散文の2つだったものを、ひとつに統合させる
・大いなる意識からの直接のメッセージは、言霊も立体的体験も、どちらも具に言葉にする
・しばらく続いている「立体的体験」は、今後本格的に続く「言霊」の準備とも言える

何らかの理由で、この文章はまだ続く様だ。

 

この日、魂の友、同志同朋である偉大な神官Hさんから、感涙のお電話を頂いた。人類の新たなステージに際し、改めてすべてを捧げる覚悟を自己の内に確認し、その清々しさと共に新たな次元で誓い直した時、この文章を目にし、、、「同じ道にある同志をこれほど身近に与えてくださったすべてに魂が震え、言葉にならない。」と、、、本当にゆっくりと丁寧に言葉にして伝えてくださった。。。共鳴の静寂が深すぎて、、、相槌もまともに打てなかった。。。

 

普通ではありえない奇跡を与えられている。感謝しかない。

 

彼とのご縁を与えられたのは、2020年8月の京都だ。普遍の摂理を体感レベルで深める機会に、参加者として共に参加した時だ。その、余りにも自然な佇まいに、静かな驚きと深い納得を同時に体験した。2週間後の再会の際には、皮膚感覚まで馴染み過ぎて、自分との境目を感じなかった。

 

彼とお会いする以前から、彼が、秘中の秘、祝之神事(はふりのしんじ)を執り行う神官にして審神者であると聞いていた。実際にお会いする彼は、驚くほど純粋で素朴で自然体だった。話す言葉、表情、笑顔も、常に深く、時に厳しく、また時に子供の様で、どこまでも清々しい。その自然な佇まいに、心地良い驚きを覚えながら、存分に堪能させていただいた。

 

彼を一目見た瞬間、ババジからのメッセージが響いた。「10月に、彼の祝之神事を受けなさい。その時、私も立ち会う。」ババジは遍在であり、彼が不在の時間も空間も存在しない。しかし、そのババジが、わざわざ「立ち会う」と表現されるからには、あからさまな形でお出ましいただけるのだろうと理解した。

 

果たして、その通りだった。御神事は一日に二回体験させていただき、一度はご縁深き龍神様に、一度はババジにお出ましいただき、神官にして審神者のHさんを通して御言葉を授かった。そのお言葉とそっくりそのまま同じメッセージを、私自身も一か月前と一年前に、それぞれから授かっていた。自分が正確に導きを受け取らせていただいていたことを、これほどはっきりと確認させていただける機会など、普通ではあり得ない奇跡だ。本当に特別な体験だ。

 

その日の祝之神事では、私にとって、特別大きな体験が他にもあった。それは、祝詞にある「かむつまります」を、ありありと体験させていただいたことだ。あらゆる次元、あらゆる空間に、隙間なくびっしりと神々が実在し、嬉々としてお働きくださっていることを、余りにもはっきりと感受させていただいた。この体験は、本当に大きなものだった。大変ありがたいことに、意識さえ向ければ、すっとその実感に戻らせていただける。その度に、ご神事の偉大さを実感する。

 

「次は4月」と伝えられているので、とても楽しみにしている。それまでに予定されているシフトを、完璧にやり遂げておきたいものだ。

 

 

昨年12月初旬のある時点から、私は壁に当たっている。導きに委ね切ったところから、この『神実現の言霊』を綴っているが、、、その実、その意義も、アプローチも分からないままだ。もちろん、意義など分からないままで良いが、アプローチにおいては、ぜひ突き抜けたいものだ。。。

 

「このテーマを盛り込む様に」と伝えられていることは、複数ある。しかし、私には、たった一度の呼吸、たった一度のOMを、完全な意識で捧げ切る方が、遥かに意義も価値も感じるのだ。それは、個人の成長においても、人類への奉仕としても、、、そして何より、大いなる実在への奉納においても。。。もっともっと、そのことに没頭したい。。。

 

しかし、、、何度確認しても、「この文章で突き抜けろ」とはっきりと導かれる。。。つまり、、、今の自分で捧げ得る最高の祈り、最高のマントラよりも深い領域へ、この文章で突き抜けるように導かれているのだ。。。「何よりも最優先で」とも言われている中、注ぐエネルギーと時間に対して、、、核を捉えられている感覚は無い。。。

 

もっと深い祈りへ、、、もっと深い愛へ、、、もっと深い合一へ。。。

 

その極点において、、、大いなる意識の直々の言霊が溢れ出すのだろう。。。是非とも突き抜けたいものだ。。。

 

OM namo NARAYANAYA
おお、この宇宙大生命よ。私は、このすべてなる大愛に完全に溶け入り、、、もはや、その大愛が響き亘るのみ。。。

OM namo NARAYANAYA
おお、この宇宙大生命よ。私は、このすべてなる大愛に完全に溶け入り、、、もはや、その大愛が響き亘るのみ。。。

 

 

2021年1月25日の昼前、、、この文章との関りを明かしていただいた。「言うなれば、今は分厚い光の門を通過している最中だ」ということだ。「今行われ得る禊ぎ祓いをやり遂げる」ということだ。丁度、コイン洗車機を通過する車の如く、、、今、光の門を通過している最中とのことだ。

 

「ここを通り抜けた先は、神独在の世界だ」

 

強く大きく言霊が響く。。。

 

「今終えるものを、今終えなさい」ということだ。これまでに「このテーマも盛り込みなさい」と言われているすべては、今ここですべて書き終えるということだから、そこそこのボリュームになりそうだ。ここで、過去の清算や、現象世界の諸々を終えていく、という導きだ。

 

それにしても、今、何が与えられていて、どの様にアプローチすれば良いかが明瞭した清々しさは、言葉にしがたいほど心地よい。これまでの自分についてや様々な体験を言葉にするのは、、、この先の光の働きに備えた禊ぎ祓いということなのだから、、、祈りに祈り、光と重なり、、、湧き上がるまま、そのまま綴ればよいのだから、、、それは、正に祈りであり、マントラの発揚と全く同じアプローチだ。。。腹を据えて、しっかりとやり遂げよう。。。

 

本当に有難い。本当に有難い。。。

 

 

2021年1月31日未明、光の門の禊ぎ祓いについて、進め方をガイドしていただいた。まず初めに、言葉にすべき項目をすべて出し、言葉にする順序を明らかにする。それは、正に、目次そのものだ。

まるで、ここまでが第一章「導きのままに」で、次が第二章「光の門の禊ぎ祓い」とでもなるが如くだ。。。この門の先が、いよいよ「神実現の言霊」なのかもしれない。

第二章「光の門の禊ぎ祓い」
・右半身の激痛で幕を開けた令和三年
・令和三年の四月と十月
・一月四日のニュースレター
・取り調べ秘話
・今生最初の師
・ディボーティーイニシエーション
・未熟さと完全性
・令和三年一月三十一日のメッセージ

 

今の時点で確認する限り、「これで完璧」とのことだ。新たなページを作り、光の門の禊ぎ祓いに身を投じよう。

 

そのページは、時が来るまで非公開となりそうだ。祈りと共に、虚・実・現すべての意識領域、波動領域において、ここで終えるべき禊ぎ祓いをやり遂げた時、そのページは公開となるのだろう。この冬の内に通り抜ける様に導かれている感覚がある。

 

祈りと共に、、、祈りと共に。。。

 

親愛を抱く友人にアンマの帰依者がいる。随分以前に彼に訊いたことがある。「この宇宙大生命、唯一なる完全な意識、本源なる大愛、、、このたったひとつのすべてのすべてのことを、アンマのコミュニティーでは、何て呼んでるの?」彼は、同席していた同じくアンマの帰依者である友人と顔を見合わせ、一瞬の間を置いて、「アンマ、、、だね。。。」と言った。しかも、二人同時に。実に素晴らしい。。。

 

つまり、アンマのコミュニティーでは、「アンマ」は二通りの意味で使われていて、「聖者としてのアンマ」と「唯一なる本源としてのアンマ」の二つだ。更に素晴らしいことに、それらは分離しておらず、一体として統合された認識がコミュニティー内に十分浸透しているのだ。大いに共感し、感銘した。

 

私にとっては、それこそがババジだ。

 

ババジの無限の愛を実感しない瞬間が無い。すべての呼吸に、目にするすべてに、、、何をしている時も、何もしていない時も、、、常にこの無限の愛と共に在る状態に置いていただいている。これがどれほどの奇跡か、、、どれほどの恩恵か。。。本当に、本当に、、、魂の底から全身全霊で感謝している。。。

 

そして、この至福を、そう遠くない将来、人類全体が共有することが既に約束されていることにも、、、無限の無限の無限の、、、すべてなる感謝を捧げる。。。

 

OM namo NARAYANAYA(オームナモ ナラヤナヤ)
おお、この宇宙大生命よ。私は、このすべてなる大愛に完全に溶け入り、もはや、その大愛が響き亘るのみ。。。

OM namo NARAYANAYA(オームナモ ナラヤナヤ)
おお、この宇宙大生命よ。私は、このすべてなる大愛に完全に溶け入り、もはや、その大愛が響き亘るのみ。。。

OM namo NARAYANAYA(オームナモ ナラヤナヤ)
おお、この宇宙大生命よ。私は、このすべてなる大愛に完全に溶け入り、もはや、その大愛が響き亘るのみ。。。

 

合掌 九拝

令和三年一月三十一日
鶴飼哲也

 

 

※ 第二章は、令和三年三月十七日に、「通るところを通った」と告げられ、相応しい日に、一日に全て、一氣にアウトプットされる旨を伝えられました。その「時」は、令和三年五月三十日に訪れました。

 

※ 第二章は、限定公開であることが分かりました。内容は、誰が見るべきものでもなく、ただ時空にアウトプットされるのが重要とのことであり、「なぜ今「体現者」が集うのか」の「体現者」にその内容が共有されています。

 

ありがとうございます。
ありがとうございます。

 

 (執筆:鶴飼哲也)